〇〇べきものは記憶

そこは自分用の辞書っぽく

引田城跡 その3

北二の丸は、上段と下段に石垣が遺っています。

なかでも上段は城内でも大きな石材を使っていたとされています。

なのですが

上段はシートで保護していました。

その代わり、どんな石垣だったのか教えてくれています。

下段は見学できるみたいです。

というか、写真だけで石垣の大きさ加減が分かりそうですね。

そんなわけで下りてみました。

     

結構高めに積まれていました。

この細やかな石垣を見てると織豊系城郭って呼ばれてるのも

なんとなく納得できます。

あ。また歪みました。(〃ノωノ)

石垣の状態から見ても

ここがメインの見せ場じゃないかって思えてきます。

上段の石垣も見れたら良かったですね。

その後、北曲輪に向かいました。

石垣を築いた痕跡はありません。石垣建築以前の土づくりの城の遺構のようです。

     

このまま案内に促され下りてしまい

うっかり大手門を見逃してしまったというショックな出来事がありましたが

個人的に気になった部分を少々、調べさせてもらいました。

本丸の石垣を見たところで出ていた看板に

和泉層群の砂岩と礫岩を石垣に使用していたと書かれていたんです。

白地図を使ってラクガキしてみました。

       

まずは中央構造線の線を引いて

その前後の挟んでる地質だけを書き込みました。

領家変成岩は花崗岩が多いって目にした事がある気がします。

三波川変成岩は片岩が多く板が重なったような感じの岩で

緑色片岩を目にしやすいんじゃないかと思います。

庭石とかで人気かも?

伊予青石、阿波青石、紀伊青石とか耳にしています。

徳島城和歌山城の石垣が青いのは、それですね。

       

そこに和泉層群を加えて書いてみました。

中央構造線の横ずれによって領家変成帯に溝が出来て

そこに和泉層群が貫入したって感じだそうです。

海のものが入り込んだ事で貝類の化石とか見つけやすいそうです。

これは海からじゃなきゃ見れないので

船に乗って撮った方のブログから拝借してますが、灯台の崖部分です。

実はジオサイトになっていました。

そんな面白い岩の山だったのでした。

眺めが、確かに気持ち良かったですね。

とても堪能できました。